Mac OSX10.6.8 & 10.7

MacOSX10.6.8 の使用頻度が段々減少傾向に有る。
LaTeXが使える「Emacs24」「SublimeText」で
コンパイルする環境が、何故か悪く成ったのが要因の
筆頭である。
以前使用出来ていた「MacVim」でのVimLaTeXも
同様にコンパイルミスが発生したので、中断。

OSX10.7.5 環境下では、上記のアプリ総て機能している。

「MacVim」はOSX10.6.8 OSX10.7.5双方共同じ
Kaoriyaバージョンを使用しているにも関わらず、
0SX10.7.5のみが通常LaTeXからPDF迄の変換を
実行してくれる。

但し、今こうして書いているホームページの文章は
OSX10.6.8の「RapidWeaver」を使って更新している。

久しぶりの更新

重複アプリを見つけて少しずつ身辺の整理整頓を進めている。
結局購入を決めたアプリは[The Duplicate Finder]と言う
名称でApple ストアから入手出来るもの。
以前はTwinsという名前が付いていた。
重複ファイルの整理の後は、Ulysses スリーという
お気に入りの物書き用アプリが、一新されUlysses III
というOSX10.7以降でないと動かない物に成ってしまった。
とにかく、書き込むだけで色々やってくれる。
といううたい文句であるのだが、footnoteを入力していたら
突然URLを指定出来る画面が現れ、開発元に問い合わせ中。
[ ]などの辞書登録している(かっこ)と言う文字を
入力するたびに、勝手にURL入力画面が登場。
現在ねUlysses スリーを使っての[かっこ]という
入力がATOK2010を使っていると全く出来ない。

OSX10.7 LIONをUlyssesを使いたいが為に
新規に導入したのだが?

OSX10.6.8が今の所心地の良い環境ではある。
何分、LaTeXも問題なく使えるし、前のバージョンの
Ulysses2やAdobeCS3も走ってくれている。

[かっこ]問題は、OSX10.7上での
他のアプリでは問題なく動作しているので
UlyssesIIIとの相性が悪いという事なのか?

いま此の文章は、[ことえり]に切り替えて
入力している。Ulysses IIIを、寸前まで使用していた
名残である。
日本語入力メソードの問題なのか?
はっきりさせる為、SKKタイプの入力方式も
試している。こちらはMacUIMで実施したのだが
何の問題も無くUlyssesIII が[かっこ]を受け付けてくれる。

ペットボトル使用を止めよう!

エコについて、再び考え始めている。
大雪で大変な環境に於かれている方々に何もしてあげれないので、気持ちだけですが、応援のエールをお送らせていただきます。

いくら自然の力と言っても、間接的には我々人間が片棒を担いできた結果として、予想を超えるいろいろな災害が身に降り掛かってきているのではないかとも思います。そんな事から、エネルギーの消耗を少なくする為の我々自身が出来る事柄を棚卸しする時期かとも思っています。

一番手短にできる、

ペットボトルの使用を止めましょう!

ゴミとボトル生産のイタチごっこではありませんか?

身体について

人間の身体の仕組みについて考えると不思議な事ばかり。
テレビで1秒間に我々の身体で起きる事柄を上手く説明していた。
1秒間に一回心臓の鼓動がある。
1秒間に心臓から送り出される血液の量は600㏄。etc.など
或る単位を基準に、物事を比較すると意外とスッキリ理解した気になれる。
日常生活に於いても、この方法を取り込んだらスッキリした時間を過ごす事が出来るのに、と考えたのは私だけでしょうか?
順序よく、物事を推し進めれば、またまた発生した米国産牛肉の輸入停止も起こらなくて済んだ事でしょう。
事を急がせているのは、誰か?
その誰かを、いつまで友達であるかのように誤解し続けるのでしょうか?
同じ身体なのに、片方はそれを食べる側。もう一方は生産する側。
牛に引かれて善光寺。
そんなのどかな時代は、再び戻ってくるのでしょうか?
グローバル化という美名の下、いろいろな不平等を推し進めている事に気が付いているのはヨーロッパの国々だけなのでしょうか?
同じ地球という身体の中に住まわせてもらっているという、自覚をそろそろしっかり持たないと、各自の独自性が奪われてしまいますよ。
建て前と本音を上手く使い分けているのは、日本ではなく案外外国の人たちのようですね。
体つきにあった生活。身の丈にあった住まい。
そのようにして日本の国が続いてきた事を忘れないで後世に伝えたいと思います。

学力低下について

最近、学力低下を危惧する話題が頻繁に出てくるようになった。
学力低下の最も著しいのは、日本語ではないのでしょうか?
地域差が拡大しているからかもしれませんが、身近にいる小学生・中学生に質問しても『この漢字習っていません!』という答えが多い。学校で教わる漢字がどうも極端に減っているようだ。そこに拍車をかけて自分で辞書を取らない漢字を自主的に調べる生徒も減っている。第一辞書を引かなくても良いような体制になっている。
教科書に新しい言葉の意味が予め載っている。

このような余計なお世話をして、子供たちのせっかくの能力を奪わないで欲しい。
子供とは、元来好奇心の塊です。

手厚い保護のもとに好奇心が薄くなった子供の顔は、すでに老人顔です。
自分自身のことを表現するにも正しく日本語で言い表わせない。
そこからジレンマとなり、あっという間に心を閉ざす方向に傾いてしまいます。
自分の気持ちを言い表わせるように『日本語』を身に付ける。
それが学力向上の本当の意味の第一歩だと思います。
『先生』は子供たちの鏡で無くてはなりません。
日本人だから必ず正しい日本語を話せるわけではありません。
一人一人が努力精進して今までのすばらしい日本の文化としての日本語が存在していたのです。
日本語もろくに話せないような『教師』はいりません。ここをちきんと教育し直すのも次の一歩として手を打たなければならないようにも思います。

久しぶりの更新です

最後の更新から2年も過ぎていてビックリ。
テーマ別にホームページを別けて書くことにしていたのですが、
筆無精にとってはそろそろ同一の場所から話題を分岐させるべき時が
来たのかもしれません。
Thingamablogを使った方のページは何とか更新し続けているのですが
RapidWeaver3.5.1を使っている此のページはソフトの方の更新がかなり有って
使い勝手が最初の頃に較べ複雑になった割には余り新しさも感じられなくなり
ついつい遠のいてしまっていると言うのが更新が遅れていた言い訳です。スミマセン。
RapidWeaverについての感想が何処かのホームページに載っていて、とにかく重くて遅い。
というのを目にしてから、同感同感と相づちを打ったのが悪かったのですね。
日本の販売店から手に入れることが出来るようになってからは
最新のRapidWeaverは試していないので性能がどうなったか判りませんが、他のソフトと較べ
どうなんでしょうか?
最初の購入のきっかけはDreamWeaverではブログが書けないので何か良いソフトは無いかと
探したら一番デザインが気に入ったので£建てで購入しました。
ページのデザインをシェア出来ると言うアイディアにいたく共鳴したものです。が次々に出されるデザインは
料金支払うための日本からの送金手続が煩雑なので尻込みしている内にソフトの更新の方に追い越されてしまいました。
今後も此のページを更新して行きたいとは思いますが、万一新しい記事が書かれていなかったらお許し下さい。

そだてる

そだてる — 別離への不安

動物でも植物でも、およそ生命あるものは、与えられた環境のもとで自然に育ってゆく力をそなえている。とくに手を加えなくても自然に「育つ」ものを、あえて「育てる」ところに文化が成りたつ。動物を家畜として育て、植物を農作物として育てることをはじめたとき、人類の文化は、その発展への大きな一歩をふみだした。 家畜や作物にかぎらず、何かを「育てる」活動のなかには、通例、育てる側からのなんらか の方向づけの要素が含まれている。子供を「育てる」過程も、しつけや教化の要素をぬきにし ては成りたたない。

 こうした「方向づけ」の側面を強調して、昔の人は「そだてる」という言葉を、ときに「おだてる」「扇動する」の意味に用いた。しかしもちろん、自然に「育つ」側面を無視して「育てる」ことはできない。内側からの成長と外側からの形成との、いわば接点に「育てる」活動がある。あるいは「なる」(自然)と「つくる」(人為)との中間といってもよい。そして昔から、わたしたち日本人はこの中間領域を重視してきた。

  人間も「氏より育ち」である。血統よりも環境がたいせつだ。教育環境の重要性を説く「孟母三遷の教え」なども、本家の中国より、むしろ日本で広く流布しているのではないか。むろん、出生より環境という思想は、一面において、現実には出生がものをいう身分社会に対応するものだ。しかし、せめて子供にたくす、親たちの夢や願望がそこに投影されているという意味では、この思想は「現代的」である。たしかに伝統的な身分社会は崩れたけれども、今日の学歴社会は、ある面で身分社会と相似の構造をもつ。「教育ママ」と呼ぱれる現代の「孟母」たちも、この構造が生みだしたものだ。

  子供を「育てる」にせよ、部下を「育てる」にせよ、あるいは弟子を「育てる」にせよ、その本来の目的は相手をひとり立ちさせることにある。しかしこの目的は、育てる側のエゴイズムのゆえに、あるいは育てる相手への強い愛着のゆえに、ともすれば見失われがちである。

  しぱしぱ人は、相手の自立をめざす活動に従事しながら、しかも、そのときがくるのをひそかに恐れる。相手の自立は一種の別離を意味し、また自己の影響力の喪失を意味するからである。こうして、「育てる」過程の成就をなんとかひきのばそうとする無意識的な傾向が生じ、さらには、客観的にみれぱこの過程の成就であり本来の目的の達成であるものが、相手の裏切りや忘恩と感じられるということも起こる。

  どうやら、わたしたちは、「育てる」ことを「つくる」ことの側に引きよせすぎたようである。ここらで、「親はあっても子は育つ」という坂口安吾の逆説を思いだしてみるのも、わるいことではないと思う。

(井上俊) 『動詞人間学』講談社現代新書408 より引用

そだてる

そだてる — 別離への不安

動物でも植物でも、およそ生命あるものは、与えられた環境のもとで自然に育ってゆく力をそなえている。とくに手を加えなくても自然に「育つ」ものを、あえて「育てる」ところに文化が成りたつ。動物を家畜として育て、植物を農作物として育てることをはじめたとき、人類の文化は、その発展への大きな一歩をふみだした。 家畜や作物にかぎらず、何かを「育てる」活動のなかには、通例、育てる側からのなんらか の方向づけの要素が含まれている。子供を「育てる」過程も、しつけや教化の要素をぬきにし ては成りたたない。

 こうした「方向づけ」の側面を強調して、昔の人は「そだてる」という言葉を、ときに「おだてる」「扇動する」の意味に用いた。しかしもちろん、自然に「育つ」側面を無視して「育てる」ことはできない。内側からの成長と外側からの形成との、いわば接点に「育てる」活動がある。あるいは「なる」(自然)と「つくる」(人為)との中間といってもよい。そして昔から、わたしたち日本人はこの中間領域を重視してきた。

  人間も「氏より育ち」である。血統よりも環境がたいせつだ。教育環境の重要性を説く「孟母三遷の教え」なども、本家の中国より、むしろ日本で広く流布しているのではないか。むろん、出生より環境という思想は、一面において、現実には出生がものをいう身分社会に対応するものだ。しかし、せめて子供にたくす、親たちの夢や願望がそこに投影されているという意味では、この思想は「現代的」である。たしかに伝統的な身分社会は崩れたけれども、今日の学歴社会は、ある面で身分社会と相似の構造をもつ。「教育ママ」と呼ぱれる現代の「孟母」たちも、この構造が生みだしたものだ。

  子供を「育てる」にせよ、部下を「育てる」にせよ、あるいは弟子を「育てる」にせよ、その本来の目的は相手をひとり立ちさせることにある。しかしこの目的は、育てる側のエゴイズムのゆえに、あるいは育てる相手への強い愛着のゆえに、ともすれば見失われがちである。

  しぱしぱ人は、相手の自立をめざす活動に従事しながら、しかも、そのときがくるのをひそかに恐れる。相手の自立は一種の別離を意味し、また自己の影響力の喪失を意味するからである。こうして、「育てる」過程の成就をなんとかひきのばそうとする無意識的な傾向が生じ、さらには、客観的にみれぱこの過程の成就であり本来の目的の達成であるものが、相手の裏切りや忘恩と感じられるということも起こる。

  どうやら、わたしたちは、「育てる」ことを「つくる」ことの側に引きよせすぎたようである。ここらで、「親はあっても子は育つ」という坂口安吾の逆説を思いだしてみるのも、わるいことではないと思う。

(井上俊) 『動詞人間学』講談社現代新書408 より引用

がまんについて

我慢する事が少なくなっているのだろうか?
デパートの初売り風景にもビックリさせられる。
今持っているものに飽きたらず、何をさらに持ったら満足するのでしょうか? 人を押し分けてでも、自分の欲しいものは手にする。なかなか根性があって素晴らしい事なのかも知れません。でも、その一方で、着るものや食べるものにも事欠く人々もいる事を忘れないで欲しい。
ちょっと自分が優しくなる事。それはほんのわずかでも我慢をして、人の為に譲る。というのは空しい事なのでしょうか?
地球温暖化を防ぐ対策について色々知恵を出し合っているようですが、根本的な解決法はまだまだのようです。
ちょっと我慢をする事を念頭に置けば案外身近な所に解決法が転がっているかも知れません。
たとえば、テレビの放映を深夜は止める。
そうすると、電波を出している側、受け取る側双方の電気の消費が減りますからトータルな意味での省エネになります。電力を作る為のエネルギーを節約出来て空気も少しは良く成るというものです。
それとペットボトルの生産を減らす。みんなで出来る事はペットボトルを使わない事を申し合わせる事です。ゴミ消却から排出される汚染物質もへり、石油の消費も減り、良い事ずくめですよ。ちょっと重たいとか、壊れやすいから、とかで使われなくなったガラスの瓶を使う事を実行しませんか?
形有るものは必ず滅す。といにしえの人は教えてくれました。
だから、壊れないように大切に、大事に扱う事を身につけたのです。
壊れないようにする事は、気持ちを荒廃させる事と同じ危うさがあります。
学校給食の食器を、昔のように瀬戸物にする所も出てきました。問いも素晴らしい試みだと思います。良い方にも悪い方にも、塵も積もれば山となるです。日常の一つ一つの小さな積み重ねが、この地球をいつまでも住みやすいものにするのだという事を、皆さんと共に大きい声で訴えていきたいと思います。
人の心や知恵について色々考えてみたい方は
こちらのページをお薦め致します。もう一つの 寺子屋ちえのき はこちらへどうぞ!

再び、育てる

世界で一番木を植えたと言われる人がこの日本にいる。
寺脇 昭氏が、その方である。
先日ラジオで講演の最後の方だけ聞く機会があったのだが、講座の最後に言われた言葉がとても印象的だった。
植物は、その基本となる環境を考えて植えてやらないと生育しない。
表面的な見てくれだけを優先して植えると、木々が森にまで育たない。
その土地土地にあったものを選んで、お互いの樹の関係をきちんと取ってあげれば何十年何百年と経つに従って森を形成する。そうしてできあがった森は、様々な試練(大風、台風、火災など)にあっても必ず生き残って、再び緑豊かな森に再生していくとの事でした。浜離宮の木々も、空襲や関東大震災の炎から生き延びてきた証拠なのだそうです。
本物は、どんな状況下にあっても必ず生き続ける。
どんな困難にあっても、びくともしないものが本物。とおっしゃっていました。
今の世の中に、本物と謳い文句を並べている割には、柔なものが多いのにビックリしていますが、“本物”“ほんまもの”等と表現する事を我々の手で排除しようではありませんか?
手間と時間をかけられるのが、本物の第一歩なのではありませんか?
皆さんは如何お考えですか?

とんねるずの「食わず嫌い」に出演のシャラポアさん。
「子供達がどうしたらテニスが上手くなれるか」というに対して
最後にアドバイスを一言。

『ベストを尽くす事。後で後悔したくないから、やれる事は総てやる。』
という言葉をくれた。

やはり世界一になる人は、努力の人。
共通の考え方をする。

日本の子供達!そのような彼女の姿を目の当たりにしたら
自分自身でベストを尽くす事を、学び取ってください!