そだてる

そだてる — 別離への不安

動物でも植物でも、およそ生命あるものは、与えられた環境のもとで自然に育ってゆく力をそなえている。とくに手を加えなくても自然に「育つ」ものを、あえて「育てる」ところに文化が成りたつ。動物を家畜として育て、植物を農作物として育てることをはじめたとき、人類の文化は、その発展への大きな一歩をふみだした。 家畜や作物にかぎらず、何かを「育てる」活動のなかには、通例、育てる側からのなんらか の方向づけの要素が含まれている。子供を「育てる」過程も、しつけや教化の要素をぬきにし ては成りたたない。

 こうした「方向づけ」の側面を強調して、昔の人は「そだてる」という言葉を、ときに「おだてる」「扇動する」の意味に用いた。しかしもちろん、自然に「育つ」側面を無視して「育てる」ことはできない。内側からの成長と外側からの形成との、いわば接点に「育てる」活動がある。あるいは「なる」(自然)と「つくる」(人為)との中間といってもよい。そして昔から、わたしたち日本人はこの中間領域を重視してきた。

  人間も「氏より育ち」である。血統よりも環境がたいせつだ。教育環境の重要性を説く「孟母三遷の教え」なども、本家の中国より、むしろ日本で広く流布しているのではないか。むろん、出生より環境という思想は、一面において、現実には出生がものをいう身分社会に対応するものだ。しかし、せめて子供にたくす、親たちの夢や願望がそこに投影されているという意味では、この思想は「現代的」である。たしかに伝統的な身分社会は崩れたけれども、今日の学歴社会は、ある面で身分社会と相似の構造をもつ。「教育ママ」と呼ぱれる現代の「孟母」たちも、この構造が生みだしたものだ。

  子供を「育てる」にせよ、部下を「育てる」にせよ、あるいは弟子を「育てる」にせよ、その本来の目的は相手をひとり立ちさせることにある。しかしこの目的は、育てる側のエゴイズムのゆえに、あるいは育てる相手への強い愛着のゆえに、ともすれば見失われがちである。

  しぱしぱ人は、相手の自立をめざす活動に従事しながら、しかも、そのときがくるのをひそかに恐れる。相手の自立は一種の別離を意味し、また自己の影響力の喪失を意味するからである。こうして、「育てる」過程の成就をなんとかひきのばそうとする無意識的な傾向が生じ、さらには、客観的にみれぱこの過程の成就であり本来の目的の達成であるものが、相手の裏切りや忘恩と感じられるということも起こる。

  どうやら、わたしたちは、「育てる」ことを「つくる」ことの側に引きよせすぎたようである。ここらで、「親はあっても子は育つ」という坂口安吾の逆説を思いだしてみるのも、わるいことではないと思う。

(井上俊) 『動詞人間学』講談社現代新書408 より引用